一夜明け、夕方は雨予報だった為、しまうま、朝一番!で千鳥ヶ淵。
これから実家へ行くので、奥迄は行くことが出来ませんでしたが、満開の桜を堪能。
来年もまた、見れますよう(願)...
その後、一路実家へ。
この時期、家族を助手席に乗せ、お花見に行ったことが、とても懐かしいです...
今日も、いつものようにベランダの植木に水を遣り、お部屋の掃除機掛け。その後、JAヘ。
お線香は、着いてからと、帰る時に上げています。
お線香は、着いてからと、帰る時に上げています。
火が収まらないと、危ないので、完全に消える迄、ようやく、後20冊程度になった『婦人の友』を
読んで待ちます。
今日は、1993年10月号に目を通したところ、「私の家族史」という投書で、「食卓の疵ー息子の選ん
だ道」というタイトルで、武井洋子さんという読者の方のページに、家族が、線を引いている箇所
があったので、読んでみました。
武井さんは、ご主人の弟さんに知的障害が有り、義母様が亡くなられてから一緒に住んでおられま
したが、二人の息子さんの内、長男の方が、その彼のことが遠因と思しく、進学したばかりの高校
に「行きたくない!」と言い出し、退学。
1年間の放蕩生活の後、左官屋さんとしてのお仕事でキャリアをスタート...、という内容だったの
ですが、その最後のパラグラフに、
やがて、この巣から飛び立とうとしている子どもたちよ。
嵐の日も上流気流に乗れる翼を訓練してほしい。
その翼のふわふわの羽毛の中に、幼い日⚪︎⚪︎ちゃんをいた
わった指先の記憶を一杯詰めこめるように。
父や母の祈りである、この地で地の塩としての生涯が全う
されるように。
樹木のように、いつも神様を仰ぐ人生であるように、と
心から祈っている。
と有り、最後の3行に、下線が引いてありました。
1993年の秋、しまうまは、Lilleでの、フランス語の初歩を学び、もうひとつ上の学びを目指して、Lyon
に出向いた時でした。
当時の家族にとっては、この武井さんの投書が、状況は全く異なりながらも、重なる部分が多かった
のかも知れません。
亡くなる前の、最後の車での通院の際、運転をしながら、しまうま、ふと「子育てって、本当に大変
だったよね...、本当に苦労を掛けたよね...」と家族に声を掛けると、「勝手に育ったよ」とサラリ。
「や、そんな訳無いよ」と言い返しはしたもののw、それ以上、会話は成立しませんでした。
子どもを巡っては、どのご家庭にもあるエピソードかも?知れませんが、切ない思い出です...